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 限りなく唇に近い頬に微かに触れた彼女の唇は、寒風吹きすさぶ冬の空気の中、あまりに暖かく、そして切なかった。
 2年間。
 実に2年もの間、静はその瞬間を熱望し続けて来た。
 そして今、仮初めのものではあったがその瞬間が彼女の手の中にある。
 それは静の2年間の聖に対する想いの結実であり、勝利であり……そして敗北の瞬間でもあった。






   Nes spe nec metu

(written by 桔梗野聡視さま)




 「ごきげんよう、静さま」
 「……あら、志摩子さん。ごきげんよう」

 自分の名を呼ぶ声に、図書室のカウンターの中で返却図書の処理をしていた静が顔を上げると白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)……いや、まもなく白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)になる藤堂志摩子がいつも通りの柔らかい笑顔を浮かべて立っていた。

 「昨日のお礼を言いたくて参りました」
 「……昨日って、もしかして"デート"の事?」
 「はい」

 新聞部・山百合会合同主催……という事になっているバレンタインデーの宝探しイベントの賞品、『つぼみ(ブゥトン)との半日デート権』を得た静が、志摩子と共に休日の学校を散策して回ったのはつい昨日の事。
 志摩子の台詞を聞いて静は微苦笑する。

 「お礼を言うべきは私の方ではなくって?」

 問いかけた静に対し、志摩子は黙ったまま微かに首を傾げつつ微笑するのみ。しばらくの間彼女が何か言うのを待ってみたが、どうやらこれが彼女なりの昨日の仕返しらしいと気がついた静は、苦笑しつつおどけた感じでためいきをついた。

 「ま、いいけど……チーズケーキは美味しかった?」
 「はい。とても"甘かった"です」
 「……そう、"甘かった"のね」

 嬉しそうに答える彼女の表情は、一般に流布している藤堂志摩子のイメージのそれとかけ離れて活き活きとしていて、静は満足を覚えた。どうやら白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)と入れ代わりで帰ったあの"お節介"を彼女は喜んでくれたらしい。

 「ああ、もしかしてお礼ってその事?」

 またも志摩子は無言で微笑むだけだったが、かわされた事を不快とは静は思わなかった。

 「まあそういうことならそのお礼、ありがたく受け取らせてもらうわ」



 図書室から出て行く志摩子の後ろ姿を見送った静は独り思案する。

 ある意味において昨日のデートは静にとってけじめのようなものだった。白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が間違いなく藤堂志摩子の(スール)である事を確認するという意味において。
 いまさらあの姉妹の間に割って入るつもりなど静にはさらさらない。
 むしろ、静は志摩子と自分との間に何らかの接点が、似通った部分を探したかった。もっとも、その試みは徒労に終わり、藤堂志摩子は藤堂志摩子以外の何者でもなく、また蟹名静も蟹名静以外の何者でもないという事を認識したのみだったのである。


 静は14ヶ月前、つまり久保栞がリリアンを去ってから今日に至るまで心に翳を抱えている。

 栞と出会い、引き裂かれ、そして立ち直るまで、そしてそれ以降の聖の一部始終を静は見ていた。
 そう、見ていただけなのだ。
 栞の様に彼女の半身となり、そして傷つけるような事も、そして傷ついた彼女を支え、立ち直らせるために手を貸した紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)水野蓉子の様にもなれなかった。ただ、離れた処から見つめていただけ。
 想う気持ちが栞や紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)に比して劣っていたとは思わない。でも、きっかけがなかったというのは単なるいいわけ。聖の前に出る事がついにできなかった、その事実だけが彼女の手元には残っていた。だからこそ、静は聖の身に起こった事を承知している、が、聖は静がそれを知っている事を知らない……
 無論、今更時を戻すことなどできない。栞になる事も紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になることもできないし、仮になったところでそれによって事態が改善出来ると思うのは傲慢だろう。
 だからこそ、だからこそ恋人でも親友でもなかった妹に、せめて自分の姿を照らし合わせてみたかったのだが……



 放課後、昇降口で下校する為に靴を履き替える静の肩を背後から叩く者がいた。

 「……白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)
 「やあ、静。これから帰るんなら一緒に帰らない?」

 差し出された聖の手と顔とに静は視線を往復させる。

 「どうかした?」
 「……志摩子さんはよろしいんですか?」

 静の問いに聖は「ああ」と言って苦笑した。その苦笑の成分にごくわずかであったが慈しむような響きが混じっていたように聞こえたのは、多分、静の気の所為でははないはずだ。

 「志摩子は今日は用事があるって先に帰っちゃったよ」

 だから気兼ねは無用、と微笑む白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)。静は一瞬だけ躊躇してから差し出された手をとった。



 「志摩子が……」
 「はい?」

 並んで歩く白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が思い出したようにぽつりつぶやいた。

 「志摩子が喜んでたんだ、昨日の静とのデートを」
 「そう……ですか」
 「一緒にいて楽ではあるけれど、あまり喜ばせてあげることはなかったからね、私としても嬉しかったんだな、志摩子が嬉しそうだったのがさ。だから、私も静に一言お礼を言っておきたかったんだ」
 「……はぁ……あの……どうも」

 楽しかったのは静もおなじであったが、聖に礼を言われると居心地が悪い。志摩子の話をされて気分が悪いというのもあるが、むしろその動機に感謝されるようなものではない部分があったことが彼女の中で澱となって聖の言葉に反応するのである。


 「ふふっ……」

 考え込んだ静の横顔を見ていた白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が不意に忍び笑いを洩らす。

 「……どうかしましたか?」
 「んー、やっぱり志摩子の話されるのは嫌?」
 「え……いえ、別に……」
 「いや、バレンタインの時にさ、あの子の前で静にもらったチョコの話をしたらたしなめられちゃってね。静の表情があの時の志摩子の表情に似ていたからね」
 「似て……ましたか……?」

 静は考え込む。

 志摩子と似ている。

 望んでいた事の筈なのにそれを聞いても少しも嬉しく感じられない。
 よく考えてみれば自明の事。  生徒会選挙を"でっち上げて"まで白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の前に立つ事を望んだのだ。そこまでして得た現状を"他人"として評価されても嬉しかろう筈もない。
 それに、結局は自分自身のこだわりに過ぎず、そしてそのこだわりにはいかなる方法を持ってしても充足する方法はないのだ……



 「何て顔してんだか」

 その表情から静が何を考えているのかおぼろげに掴んだらしい白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が柔らかく微笑んで、色以外は自分のそれに似た静の黒髪をくしゃっとかき回すようにして頭を撫でた。

 「静は静……志摩子は関係ないでしょ?」
 「……」

 きょとんとして見上げる静に白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)はウィンクをして見せる。

 「私も静かだから一緒に帰ろうと誘ったのよ」

 もう一度ウィンクして「そのへんを間違えないように」と言うと白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)は踵を返して静の先を歩き始めた。



 ああ、そうだったのか……



 その時、初めて静は気付いた。

 自分が栞や紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)、そして志摩子になることができないように、彼女達もまた"蟹名静"になることはできないのだ、と。
 栞に対する辛い思い出も、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)に対する多分の感謝と極少量の負い目も、そして志摩子に対する"心地よさ"に繋がる同じ"傷"も、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)は静に対して感じる事がない。突如目の前に現われたファンで、なおかつ白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)に気に入られた……それが今の静の立場。きっと他の、過去のしがらみとかからフリーで付き合う事ができるのだろう。これはある意味でアドバンテージではないだろうか。
 それによく考えたらこの立場、少し違うがそれでもある意味で似ているではないか、あの子に……そう、福沢祐巳さんに。
 そこに思い至ると静は自然と自分の口元が緩むのを自覚した。


 「静? どうしたの、おいてくよ?」
 「あ、はい!」


 いずれにせよ期間限定の関係なのだ。進展する事は決してないかも知れないが、壊れてしまう事も心配する必要はない。惜しいとは思うが、決断するのが2年遅かったのだ、しかたがあるまい。ならば、せめて楽しまなければ損というもの。

 「あれー? なんだか嬉しそうだね、どうかした?」
 「ええ、ちょっと。それよりも白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)、紅茶飲みに行きませんか?」
 「紅茶? うーん、私は紅茶よりも珈琲の方が好きなんだけどなぁ」
 「珈琲は歌うたいにとっては喉によくないので却下です。駅前にラプサンスーチョンを出す店があるんです、行きましょう」
 「ラプサンスーチョン!? ……静、ずいぶんとキツいもの飲むんだねぇ」

 "オリエンタル"な香りとしてヨーロッパで珍重されるラプサンスーチョンだが、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)もあのクセの強いスモーキーフレーバーに腰が引け気味である。しかし、静は気にすることなくその手をとるとずんずんと引っ張っていく。

 「まあまあ、そんなこと言わずに付き合ってください」
 「ちょっと待って、静」
 「待ちません」
 「しずかー!」

 静はこの上なく楽しそうな笑顔で白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の手を引きつつ、帰途についたのであった。







   あとがき
 なにか違う……こんなの静さまじゃなーいっ!!
 …………失礼しました、ちょっと取り乱してしまいました。
 相互リンク記念という事で神月さまがイラストを下さる、ということになったので、ではこちらも何かという事になって、頂いたリクエストが「聖×静SS」。で、書いたのがこれなのですがいかがでしょうか、神月さま?
 っていうか記念で人様にお渡しするにはちょっと重かったかな、という気がします。なんだか静さまは弱気だし、白薔薇さまは添え物みたいになってしまったし、なんだか言いたい事がぼやけてわかりにくいし……反省することしきりです。もっと甘甘にした方がよかったかな?
 ちなみにタイトル『Nes spe nec metu』は、大国の思惑から自国をその機知と勇気で守りきった(為にイタリアをスペインの侵略に晒す事になった)ルネサンス期イタリアの小国マントヴァ公国の公爵夫人イザベッラ・デステの座右として知られる言葉で、「夢もなく、恐れもなく」という意味の言葉です。でも、いまいち内容と合ってないような……


神月の感想

ありがとうございます〜!!!うひゃ〜!静ぁぁぁぁぁ!(絶叫)

やっぱり静には片思いが似合う…(ってあんな[白×黒SS]書いといて何を言うか私)

「でも、白薔薇さまは存在するから」

「そう。だから私たちは幸せなのよ」

罪作りだ佐藤聖〜!!(そして私もその魅力にクラクラ…ははは)

桔梗野さん、どうもありがとうござますッ!重いの好きです(^^;切ないのも好きです〜!

はいッ!そういうわけで桔梗野聡視さまのHP、廃棄書架園に私神月の静イラストを贈らせて頂きました。

あ、あのイラストのお返しがこれ…幸せものね私!(笑)

アップの日:2000.5.30.

 

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